ソウルから車で約2時間30分。小林さんは 忠清南道扶余に向かいました。扶余は百済王宮最後の場所として多くの歴史的文化遺産が今も残り、一帯は「百済歴史遺跡地区」としてユネスコの世界文化遺産にも登録されています。韓国人蔘公社の工場と博物館は、この地域にあります。 「普段から芸術や伝統に触れ、美意識磨きを怠らない」という小林さんのリクエストで、工場を訪ねる前に、まずは華やかな時代の気品をそのままに残した「百済文化団地」に復元されている泗泚宮や「定林寺趾」に立ち寄りました。
時空を超えて佇む石塔と石仏の美しさにためいき
百済の都、泗泚(538〜660年)の時代、都の中心に建設されたのが定林寺です。 寺院そのものは現存しませんが、1400年の歳月を経た国宝の五層石塔が、堂々とした存在感で私たちを出迎えてくれます。 奥の講堂には、定林寺の本尊だったという石仏坐像が安置されていて。蓮の花が大好きという小林さん、その台座などを細かく鑑賞する姿が印象的です。 「かなり破損はあるけど、見ているだけで癒されるわ」。美しいものを見て、長旅の疲れも一掃されたよう。エネルギーもチャージされて、一路、韓国人蔘公社の工場と博物館に向かいます。 美しい自然と歴史ある環境に恵まれた場所。「高麗人参のものづくりも、決してそれとは無関係ではないでしょう」。小林さんはそう考えています。
製造と発信の最先端拠点、高麗人蔘廠
正官庄の中枢ともいうべき韓国人蔘公社の高麗人蔘廠。工場とともに、高麗人参の歴史や知識を網羅した博物館が併設されています。より理解を深めるために、まずは博物館に足を踏み入れました。
中国最古の薬物書にも記されている高麗人参
高麗人参の歴史は古く、5世紀に成立した中国最古の薬物書「神農本草経」に山に自生する珍しい薬用植物として人参の記述があります。 「火を通すと消化しやすくなる」。古の人々は、それを経験で知っていたのでしょう。 高麗時代になると、蒸して乾燥させたものが登場。現在ではそれを紅参と言いますが、当時は熟参と呼ばれ、その栽培、製造も始まりました。 紅参という名称になったのは、1700年末頃だと言います。
日本では、正倉院御物にも残されているように、貴族だけが手にすることのできる貴重なものでした。 江戸時代、高麗人参の効能が神格化したことでより高価なものになり、高麗人参600gと銀24㎏が交換されたと言います。 8代将軍徳川吉宗は各藩の緊迫した財政を手助けする策として、高麗人参の種や苗を配り栽培させました。日本で高麗人参を、オタネ人参と呼ぶ由来は、将軍が下賜した御種からきています。 一つ一つの展示ケースを、覗き込むように丁寧に見て回る小林さん。「脈々と連なる歴史と人々の知恵や工夫の集積が、今の正官庄のものづくりにも受け継がれているのですね」。
国の威信をかけた正官庄のものづくり
古の時代から健康や長寿、美容の妙薬として、時の権力者達にも重用されてきた高麗人参ですが、その効果があまりに優れていたため国内外に粗悪な偽物が氾濫したとか。 「危機感を覚えた韓国の王室は、1899年に『紅蔘専売法』という法律を作り、栽培地の選定から加工に至るまでを国の専売事業として一貫して管理を行うことで、高麗人参を保護しました。 その後、1996年に専売制は廃止されましたが、民営化され専売の事業を引き継いだのが現在の韓国人蔘公社です」と案内役のキムインスクさんが説明します。
「正官庄とは、政府が管轄する場所で生産された信頼できる商品、という意味なのですね」と尋ねた小林さんは、紅参の原型を入れる歴代の缶の展示を見て、いかに偽物と戦ってきたかの変遷も知りました。そして、缶の中に収める箱の包装紙にも、幾度となく正官庄のものだと証明するハンコが押されるということを聞き「高麗人参に対しての揺るぎない自信と誇りの表れですね。国の威信をかけたものづくりに、共感することができます」。博物館を後にした小林さん。次は紅参を製造する工程を見学するため、普段はカメラが入ることができない厳重な情報管理体制の工場へ。